煉獄の中で

歴史はまた一つ歳を取り、そしてまた、「世界」は浮き立った。そして今、私は「世界」と基底との間に居る。「世界」に選ばれなかった、お零れのための煉獄は、空虚と失望で満ちている。

彼らの人生の歯車は時計に反逆し、環境は崩壊へPreludeを奏で終えてしまった。残された救い達は、もはや救う事の無いその羽を使い、最期のフライトを楽しんでいる。彼らに恐怖を与えるはずの絶望すらも、その役割を果たす事は無い。

空虚は子孫を構築し、失望は子孫を崩壊させる。「世界」は、子孫達の侵入を防ぐために、情報を開発し、煉獄は、子孫達の流出を防ぐために、情緒を開発した。情緒によって感化され、情報によって懐柔された子孫達は、情緒を保持する者であり、情報の消費者である事に誇りを持ち、煉獄の崩壊を先延ばしするために、お零れ達の世話をする。そこに「世界」の煌きは無い。

お零れや子孫達は、決して「世界」への登高を挑もうとはしない。仮に「世界」に憧れを抱いていても、それは変わらないであろう。「世界」によって懐柔されたからなのだろうか、それとも、煉獄こそが最期に居るべき世界であると認識しているからなのだろうか。

私に見えていないだけで、煉獄にも、「世界」で見たような煌きが満ちているのかもしれない。しかし、あの日、この煉獄で確かに見た、一点の蛍の光すらも思い出せない今の私には、その予測すらも滑稽な物に見えてくる。

「世界」で煌きを見たあの時、私の網膜が焼き切れてしまったのだろうか。「世界」の煌きを見てしまった今、私には、網膜が焼き切れていない事を祈る事しかできない。