マリオット盲点

家に帰ると、彼女が出迎えてくれる。出迎えてくれるといっても、玄関先に居るだけだ。労いの言葉をかけてくれはしない。彼女は、そのような言葉が無意味であるという事を既に知っている。

彼女は、私が人間から、何如に邪険に扱われる事があろうとも、出迎えという行為で、私の事を気遣ってくれる。どのような状況下においても、彼女だけは、私を意識してくれている。彼女の、一般通念に照らし合わせた時に無愛想と言われるような態度は、私に、そのような御言葉を示唆してくれる。

私が近づこうとすると、彼女は一定の距離を保ちながら後ずさる。私の心が発するタールのような汗に、嫌悪感を示しているのかもしれない。しかし、彼女は離れてはいかない。それは、彼女の、私が不快その物となった時も、私を見捨てないという覚悟の表れだろう。

彼女のその覚悟を見る度に、私の胸は赦しの涙で満ちていく。赦しの涙は、彼女に何かしてあげなくては、という焦りを助長する。そして、その焦りは、私の心から汗を分泌させる。私のエゴが、彼女を苦しめているのだ。そのジレンマが、私を人間という怪物に変化させた。

人間と化したあの日から、私が彼女を見る事は無くなった。もしかすると、彼女は私の元を去っていったのかもしれない。しかし、彼女のあの決心は、私が人間と化した程度で揺らぐようなものだったのだろうか。私には、そうとは思えない。しかし、あの日から、彼女の姿を見ていないのは、紛れも無い事実だ。

最近、人間の視野には、マリオット盲点と呼ばれる物があるという事を知った。目の構造上、生理的に存在する暗点だそうだ。彼女の姿が見えなくなったのは、この盲点が原因なのかもしれない。そうならば、今も彼女は、このマリオット盲点で、私を意識し続けているに違いない。

一日も早く人間から戻り、彼女に奉仕しなくては。その焦りは、私の人間性を確固たる物へと変貌させていく。私は、あの幸せな日常から遠く離れた所に来てしまったのかもしれない。