もやの先

携帯電話が鳴ったのは、何年かぶりに休暇を取り、長らく計画していた二週間ほどの旅行から帰ってきたちょうどその時だった。

アップテンポな着信音をかき鳴らす電話を手に取ると、懐かしい声が聞こえてきた。実家に残してきた、父親の声だ。

父親は、何度も連絡したが繋がらなかった、ちゃんと電話を取って欲しいと、早口でがなりたてた。そして、母親が死んだ、と続けた。

母親が死んだとはどういうことだろう。急いで連絡するほどのことなのだろうか。そして、なぜ父は怒っているのだろうか。裕紀ゆうきの疲れた体は、早口でまくしたてる電話の声を聞かなかったらしい。スピーカーが鼓膜を揺らすのも気にせず、ぼんやりと、旅行先で印象に残った景色を思い返していた。

やがて、父は大きなため息をつくと、声の調子を落とし、事務手続などで忙しいから実家に帰ってきてほしいと告げた。

父はいままで、裕紀の母そのひとが、三日前に息を引き取り、焼かれるその時を待っている、という話をしていたのだった。

人手が足りないから、とにかく早く帰ってきて欲しい。父は、落ち着いて、しかし怒った調子でいった。裕紀は、今日はもう遅いので明日の朝に行く、と答えた。父は、迎えに行くので最寄り駅に着いたら連絡して欲しい、といい電話を切った。それを聞いた後でもまだ、裕紀の疲れきった頭は母親の死を実感を持って受け入れることができずにいた。

裕紀は親たちと距離を置いていた。なにかしらの確執があった、というわけではない。むしろ、親との仲は良い方だった。

裕紀の思いだせる限り、両親の仲は良かったし、親は子供である自分によくしてくれていた。確かに常に仲が良いというわけではなかった。中学生の頃はいつも、早く大人になって家から出ていきたいと考えていた。しかし、高校に入学する頃にはそうも思わなくなった。ただただ反抗期だから反発したというだけで、それ以外に理由はなかった。

裕紀と親の間に距離が生まれ始めたのは、裕紀が仕事の都合で上京してからのことだった。これも、特に何かがあったというわけではなく、上京してから親たちとの距離感を掴み損ねていたというだけだった。

電話が切れたあと、裕紀はのそのそと脱衣所に向かった。服を洗濯機の中に脱ぎ捨て、水垢にくすむ浴室扉を開け、風呂場に入る。熱湯の蛇口と冷水の蛇口を器用に調節し、いつもはさっと流すだけの髪を念入りに洗いながら、母について頭を巡らせはじめた。

裕紀が母のことを考えるときはいつも、不安で眠れなかった幼少期のことを思い出す。

母はいつも同じ話を聞かせてくれた。どの絵本にものっていない、母がつむぎあげたお話だ。作家でもなければ教師でもない、一介の主婦である母がなぜ、わざわざ自筆の話を語っていたのかは分からない。しかし、その話を聞いた時はいつも、父も知らない二人だけの秘密があることに、むずがゆい喜びを感じ、不安を忘れてしまうのだった。


朝一番の新幹線から地元の鉄道を乗り継ぎ、家の最寄り駅に着いたのは、ちょうど日が沈むころだった。裕紀は父に電話をかけたが、呼び出し中の機械音が聞こえるばかりで、連絡が取れそうにない。駅の外には、営業時間外の観光案内所と、最寄りのタクシー会社の電話番号が書かれた看板、そしてタクシーの停留所があるだけだ。裕紀は、父に連絡することを諦め、タクシーで帰ることにした。

家に向かうタクシーの車窓は、朽ちつつある廃屋と、いくばくかの稲を育てる田んぼばかりを映していた。裕紀は、上京してから長らく見ていないその景色に、懐かしさを覚えながらも、このような打ち捨てられた土地で生涯を終えた母はどのような気持ちだったのか、推し量れずにいた。

久しぶりに帰った実家は、思いの外賑やかだった。家中のテーブルをかき集めて作った長机には、さまざまな料理が乗せられており、黒い服を身にまとった親戚たちが料理の前でぎゅうぎゅう詰めになりながら、母との思い出話に花を咲かせている。その周りでは、付き合いだからと無理やり連れてこられた子供たちが、携帯電話で何かを見て時間を潰している。父は、親戚たち一人一人にお酌をしている。どうやら、裕紀が列車に揺られている間に、お通夜が始まっていたらしい。

「それでね、あの人若い頃に神隠しにあってたじゃない。だから神様に見初められたんじゃないかと思ってるのよ」

「はぁ……」

裕紀が父に声をかけた時、父は、来賓の与太話にひたすら曖昧な相槌を打っていた。どうやら、話を切り上げる隙を見失ってしまったらしい。

父は、裕紀の帰宅に感謝した後、葬儀屋に言われた書類を母の部屋から見つけて欲しいと言った。そして、来賓への対応に手一杯で、書類仕事に手をつけられないといったことを嘆いた。裕紀は、父の愚痴を聞きながら、生まれてこのかた母の部屋に入ったことがなかったことに、奇妙な疎外感を感じていた。


母の部屋は、思いのほか小ぎれいだった。しっかりと片づけられていて、ガラクタの類はどこにもない。そのお陰もあって、裕紀は必要な書類を難無く見つけだすことができた。用事を済ませて部屋を出ようとしていた時、書類の束の隙間にある大学ノートが目に飛びこんだ。

この、ありふれた市販の大学ノートは、裕紀にとって特別なノートだった。幼少期に何度も聞いた、母お手製のお話は、このノートに書かれている。母が中身を見せてくれることはなかったが、裕紀が幼かった頃、このノートを読む母の声を聞きながら眠りに落ちた。幼い裕紀にとって、この古びたノートと母は同じものだった。

何度も開いたり閉じたりしたせいか、紙の端はきばんでしまい、一部すりきれているところもあったが、お話を記したインクは、色褪せることなくそこにあった。


『むかし、あるところにすっかり寂れきった村がありました。

その村には、たおれかけた小さな家がぽつんぽつんとありましたが、その家のなかでも一段と大きな家に、女の子がたったひとりで住んでいました。

村には、女の子のほかに、人はだれ一人いませんでした。女の子は、村にある畑でいねや、むぎや、いろいろなこくもつを作ってくらしていました。

女の子は、どうして一人きりになってしまったのか、まったく分かりません。少し前まで、おとうさんも、おかあさんもいたような気がします。しかし、それが本当のことなのかどうか、それとも女の子自身が願っていることなのか、もはやそれすら分からなくなっていました。

村には、おおきな杉の木が一本ずんぐりと立っています。その木は、女の子のただ一人のともだちでした。木は、女の子によく昔話をしてくれました。

杉の木のお話は、いつも同じでした。女の子が小さなころ、村には人がいっぱいいたこと。村はいつもにぎやかで、まいにちお祭りがあって楽しかったこと。いつのまにか人がいなくなってしまって、今はとてもさみしいこと。いつもいつも、まったく同じお話を聞かされて、女の子はもううんざりでした。

ある日、村に小さな子供が迷いこんできました。杉の木はいつもと同じお話を話していて気づきませんでしたが、女の子はすぐに気がつきました。どこから来たの、名前はなぁに、女の子は話しかけます。ですが、子供はなにも答えません。

女の子が困っていると、子供はおなかがすいたといいました。女の子は、じまんの畑でそだてたものを子供に食べさせてあげました。

子供は元気を取りもどし、まいごになってこの村にたどりついたことを教えてくれました。そして、子供はこの村に住みたいといいました。

女の子はうれしくなりました。やっと一人ではなくなるのです。けれど、村には子供が住めるようなところはどこにもありませんでした。子供を住ませてあげるにはどうすればいいのか、女の子にはまったく分かりません。

杉の木はいいました。

「私を使って家を作ればいい」

女の子はなやみました。杉の木で家を作れば、子供を住まわせてあげることはできますが、杉の木とお話ができなくなってしまいます。ですが、杉の木がないと、子供を住まわせてあげることはできません。

女の子はとてもとてもなやみました。杉の木はいいました。

「ひさしぶりに外から人が来て、私は昔の気持ちを思いだすことができた。村のためにも、私を使って家を作り、子供を住まわせてあげてほしい」

杉の木があまりにお願いしたので、女の子は杉の木で家を作ることにしました。杉の木がとても大きかったので、子供にも手伝ってもらって、たくさんの家を作りました。

そのうち、昔この村がさかえていたころのお話を聞きつけて、この村にうつってきて住む人が、何人もできました。村はだんだんにぎやかになっていきました。杉の木がここにいれば、とてもよろこんだだろうなぁ、にぎやかになる村を見ながら、女の子はぼんやりと思いました。

そんなある日、村に旅人がやってきました。村の人たちは、旅人にせいいっぱいのおもてなしをしてあげました。

旅人は、こんなにやさしい村は初めてだとおおよろこびです。村に来てからずっと大切そうにかかえていた、大人のてのひらほどはある箱を見せながら、旅人はいいました。

「この箱はきちょうなものなんだ。このばしょにあるものをそっくりそのままうつし取ってくれるんだよ。この村の人たちはとても気が良くて大切なものだから、この箱でうつし取ってあげよう」

しかくい箱には、まるいレンズが一つだけついていました。レンズはぎらりと光っています。女の子はなにか良くないものを感じましたが、それはきっと初めて見るものだからだろうと思いました。

旅人が村から出ていった日の夜、村に大きなあらしがやってきました。集まってきた人たちは、あらしにおびえてにげてしまいました。たわわに実ったいねは、じゃあじゃあとふる雨に流されてしまいました。二人でいっしょうけんめいたてた家は、あとかたもなくこわれてしまいました。小さな子供は、ごうんごうんとうなる風につれさられてしまいました。あらしは、村から全てをうばいさりました。

女の子は、杉の木があったところで、日がのぼってしずむまで、ずっと待ちつづけます。雨がざあざあと降っても、びゅうびゅうと風が吹きつけても、ひたすら待ちつづけます。どれだけ待っても、あの子が来ることは、ありません。

女の子は、ひとりになってしまいました』


細いボールペンで綺麗に清書されたお話は、裕紀が昔聞いていた話と少し違っていた。

裕紀が知っている結末は、「女の子と子供のおかげで、村にたくさんの人がやってきました。そう遠くないうちに、村は昔のようにさかえるでしょう」といったものだった。母の気分によって結末が少し変わることはあったものの、女の子と子供の活躍で村に活気が戻るという大筋が変わることはなかった。少なくとも、女の子が孤独な世界に戻るような、仄暗い結末ではありえなかった。

お話の最後のページには、一枚の黄ばんだ写真が貼りつけられていた。大きさは子供のてのひらほどで、四隅に貼られたセロハンテープはいまにも崩れ落ちそうだが、虫食いなどはない。

昔に撮られたものなのか、写真からは色がすっかり抜けてしまっており、全体に白いもやがかかっている。もやの先からは、少女がこちらにほほえみかけている。

写真の下には小さく地名が書かれていた。この地名を、裕紀は母から聞いたことがあった。母が話してくれた結末のバリエーションのうちで、ただ一度だけ出てきた地名だった。

その時のお話も「村はさかえるでしょう」で終わったが、その地名を口にした母がどこかに連れ去られてしまいそうで、怖くなり泣き出してしまったことを覚えている。

この少女は、もしかすると母なのではないか。ならば、この写真は一体なんなのだろう……。

裕紀は突然、自分自身がもやの中に吸い込まれていく感覚に襲われ、はたと考えることをやめた。自らを取り込まんとしていたもやは、ノートの中に帰っていった。

やるべきことが山積みなのに、このような所で油を売っている暇はない。裕紀は自らにそういいきかせ、もはや輝きを失ってしまったノートを元あった場所に押し込め、逃げるようにその場を立ち去った。

SEO[PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送