Aの手記

「探さないでね。探してもきっと見つからないと思うけど」

それは、チラシの切れ端に書かれた、とても身勝手な置手紙だった。この日が来るまで、大切だと思っていたものがふっと消え去ってしまう、そんなこと、考えてもみなかった。

いつものようにご飯を食べて、いつものようにおしゃべりをしてさっきまで、いつもと変わらない、本当になんの変哲もない日だったのに。

もしかすると、あの人はそんな日常に飽き飽きしていたのかもしれない。何かに急かされて、何もかもが目まぐるしく変わる、落ち着きのないこの街のことが好きだったから。

あの人と出会った交差点、広告ネオンで眩しい照らされたいつもの待ち合わせ場所、一緒に行列へ並んだけれど味は微妙だったカフェテリア、みんな何か別のものに変わってしまった。お金を追い求める人々と、その日暮らしの作業着姿の人たちが、大切な場所を踏みにじり、別の何かに変えていく。

この世のすべてがあるこの街の、きっとどこかにいるはずなのに、いくら探しても見つからない。街が変わってしまったから?だったら、変わっていない場所に行けば見つかるのかも。けれど、変わらない場所なんて、この街のどこにもあるわけない。どこもかしこも、どこに行っても、みんながみんな、変わっているんだもの。

すべてが固くて灰色で、すぐに壊れるこの街で、あの日見た蜃気楼を探し続けている。終わりが来ると思いもしなかった頃の能天気な私が、もしも今の私を見かけたら、きっと馬鹿にするに違いない。


忘れることで強くなれる、そんな風に人は言う。けれど、あの人のことはどうしても忘れられない。

変わり続けるこの街に、私もこの身を委ねようとしたけれど、そのたびにあの人のことがまぶたに浮かぶ。まぶたに浮かぶあなたの姿は、あの頃と全く変わっていない。変化を忘れたその姿は、この街が好きなあの人には似合わない。

似合わない姿であっても、あの人はそこにいる。瞬きひとつせず、私をひたすらジッと見つめている。私は瞬きしているから、見つめ返すことはできないんだけれど。

もしかしたら、向こう側に行ってしまえば、見つめ合うことができるのかもしれない。きっと、瞳を閉じるたびにもどかしい思いをしなくてもよくなる。瞳を閉じた向こう側、そこがどこかは分からないけれど。


今日、夢の中にあの人が出てきた。私の知っているあの時の姿のままで、あの時と同じように私と接してくれる。

なにも変わらない風景、なにも変わらない日常。ヘロヘロに伸び切ったVHSテープのようにぼやけているけれど、そこにはあの時の幸せが確かにある。

なにもかもが移りゆく街と、変わらない記憶、大きな違いだと思うけれど、そんなのは関係ない。なんてったって、街が変わるのは止められないけれど、私自身を留めることはできる。私を変えるのは私自身なんだから。

明日もあの人の夢、見れるかな。


夢がだんだんおぼろげになってきて、あの人の姿もふやけてきた。

いつもと同じ場所に探しに行って、いつもと同じ時間に諦めて、いつもと同じ時間に夢を見る。私は何も変わっていないはずなのに、あの人は変わっていく。

時間は確かに経っているけれど、それだけでここまで変わるだなんて思えない。記憶の中のあの人も、きっと変わることが大好きで、あの日の書き置きと同じように、私から離れていこうと必死なんだ。

変わらない私がそんなに嫌い?

あの人は嫌いなんて一度も言わなかった。記憶の中のあの人も同じ。おぼろげな姿で、いつもあいまいな受け答えをしてくれる。

嫌いなら、そう言ってくれれば諦められたのに。

あんな置き手紙を残したせいで、ないはずの希望を見つけてしまう。そこにあの人が現れることはないはずなのに、もし現れたらそんなことばかり想像してしまう。

あの人は、なにを思って置き手紙を置いたのだろう。夢の中のあの人に聞いても、何度何度聞いても、その答えを教えてはくれない。

私はあの人のことを何も知らない。


夢にあの人が出てきてから、もう何日経っただろう。夢の中のあの人はいつも、同じぼやぼやの姿で私を出迎えてくれる。

出迎えてくれた後のことは全く思い出せない。思い出せないのはつらいけれど、夢の中ならあの人に会える。それだけで、とっても嬉しい。

あの人探しは相変わらずで、どこを探しても見つからない。月日が経ちすぎてしまって、もはやどこを探すといいのかすら分からなくなってきた。私とあの人との関係は、もしかすると、「この世のすべて」なんてものと関係なかったのかもなんて思えてくる。

夢の中のあの人が変わらないのは、関係ないことを教えてくれているのかもしれない。あの人は「この世」と関係がない、だから夢でいつも私を出迎えてくれる。そうか、「探してもきっと見つからない」なんて嘘だったんだ。

もっともっと眠ればきっと、その先のことも思い出せるようになるはず。